『あなた誰?立夏じゃない』
『立夏を返して!』

母親が責め立てる言葉の数々が胸を締め付ける。


じゃあどうしてオレはここにいるの?
母親からも望まれない存在。
姿形だけは同じで中身だけが違うニセモノ。

――オレは何のために生まれたんだろう…?

オレのいる意味ってなに……?


reason d'etre


ちゃぷん、とお湯が波打つ。
立夏はアヒルのおもちゃを手にずっと無言だ。

痛々しい真っ青な痣。
引っかかれた傷。
今朝はなかった筈の怪我の数々が、小さな細い体に増えている。

だけど、我慢強い立夏は泣きそうになっても泣かない。
痛いとも言わない。
そのせいか、立夏は今日は口数が少なくなっている。

「立夏、今日はずいぶん大人しいね。機嫌でも悪いの?イヤなことでもあった?学校でイジメられた?」
わかりきっていることだが、清明はあえて聞いてみるとピクンと濡れた立夏のミミが動く。
「あ…違うよ。ごめん。考えごとしてた」
「考え事?」
「うん…なんでもない」
手にしていたアヒルをお湯に浮かべて立夏はそう言う。
「何を考えてたの?」
「たいしたことじゃないよ」
立夏が言うと清明はじーっと見つめてきて、「本当に?」と問われているような気分になり、立夏は水面に視線を落としてミミを下げる。
「どうしたの。言ってごらん」
立夏の頬を濡れた手で包むようにして上げさせると、立夏は迷うように視線を泳がせる。
「立夏」
名前を呼んで促すと、立夏は唇を動かす。
「オレ…なんのためにいるのかなって…」
消え入るような小さな声で、幼い弟は自分の存在意義への疑問を口にした。
それから、少し泣きそうな顔をして唇をきゅっと噛む。
「母さんに何か言われた?」
重ねて聞くと立夏は唇を噛んだまま、何も答えようとはしない。


記憶を失ったことで母親は今の立夏を自分の息子だとは認めない。
暴力で体を、言葉で心を傷つける。
小さな体は傷だらけだ。
心の傷は外見ではわからないが、立夏が母親の言葉に傷ついていることはわかる。
体の痣や怪我は心の傷を表しているようにも見える。

存在を否定され、自分のいる意味を考えて、幼い弟は苦しんでいたのだ。


「立夏がここにいる理由は、僕に会うためだよ」
「え…?」
立夏は無意識に兄の顔を見上げると、優しい眼差しで笑みを浮かべている兄が言う。
「立夏が僕の弟に生まれてきてくれて、僕は嬉しいよ」
「………」
立夏は大きな瞳を揺らして見上げてくる。
「立夏は違うの?」
「…ううん…違わない。オレ、清明がいてすごく楽しいし、清明のことは好きだよ」
首を振って立夏は手を兄の手を掴んで、懸命に答える。
「本当に?」
「本当だよ」
「じゃあ、そんな悲しいこと言わないで」
お湯の中で清明は小さな細い体を抱きしめると、お湯が波打ち、ざぁーっと湯船から溢れた。
「ウン…もう、言わない」
大好きな兄が悲しいと思うことを言っちゃいけないと、立夏は思った。
「おまえは何も悪くないんだ。かわいそうに…」
抱きしめたまま言う清明に、立夏は複雑な気持ちに陥る。

(オレ…『かわいそう』なのかな…?)

よくわからない。
かわいそうってどういうことだろう?

憐れむ言葉。

怪我をしていれば、それは『かわいそう』と言ってもおかしくない。
自分だって他の人が怪我をしていたら、痛いだろうしかわいそうだと思うだろう。

母親の暴力は自分が受けるべき罪──立夏はそう思う。
自分だけが自分のことを知らない。
あんなに嘆き悲しむ母親に、自分は何も出来ない。
記憶がなくなったことで受ける暴力は仕方ないこと。

憐れみが欲しいわけじゃない。
そう思うと、悲しく思う。
でも清明が「かわいそう」だと言うのは、清明の優しさだから…。

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